日吉山王祭禮の夜に−牛の日の神事
境内は祭禮の庭を除いて漆黒の闇に包まれていた。闇は無ではなく、数千年の時を内包し、闇に蠢く「たま」が存在した。清澄なる「たましい」も邪悪なる「もの」も等しく闇に包まれてそこにあった。
日吉山王権現の春の祭礼は、如月(三月)の申の日に、八王子山麓に安置されていた八王子と三宮の御輿を山上の社殿に担ぎ上げる神事で始まる。八王子は大山咋荒御霊を祀り、三宮は鴨玉依姫荒御霊をお祀りする。この日より一ヶ月間、山の神殿には毎日燈明がともされ、厳重な「籠もり」に入る。かつて神に仕える者は、神の代理人であり、神の声を聞くことの出来る者でなければ勤まらなかった。神の声を聴く者は、その能力を維持するために定期的に行う物忌み・禊ぎと呼ばれる「こもり」の儀式を必要とした。如月の申の日より一ヶ月間行われる「こもり」は本来祭りの中核に位置づけられる儀式であった。
「こもり」は、単に一定期間、一定の空間に閉じこもるだけではない。「こもり」の根底には古来より続く日本人の「たま」への信仰があった。「たま」の入れ物である身体は死によって消滅するが、「たま」はそこから遊離するだけで不滅であると信じられた。「たま」は生命活動そのものであり、病は「たま」の活動が不活発になるか、身体から遊離するため生じると考えられ、「たま」の活動を活性化する「霊魂振り」や「霊魂鎮め」が行われた。あらゆる生き物の根底にも「たま」が存在し、季節によって活動が循環した。秋は実りの季節であるが、枯渇の季節でもある。秋は「たま」の活動が不活発になったり、「たま」が身体から遊離して行く季節であった。次に来る冬は様々な生命の活動が停止する季節であるが、単なる死の季節ではない。冬は「ふゆ(増ゆ)」であり、じっと「ふゆ籠もる」ことで秋に離れていった遊離魂を呼び戻し、身体に付着させ、「たま」を増加させる季節であった。旺盛な「たま」の活動の季節である春(張る)にそなえるために、「ふゆ籠もり」の時間が必須であった。稲は稲霊を籾殻という空虚な殻に閉じ込めて春を待つ。椎の実は硬い殻にくるまれて大地に落ち、冬を過ごして春に命を得る。蛇は虚ろな巣穴で冬眠する。「こもり」とは空虚な空間に閉じこもる行為であり、仏教の時代にも参籠、補陀落渡海の観音信仰にも影響を与えた。また「こもり」の期間は、秋に落葉樹が葉を落し生命活動を停止したかに見える擬死の時間であった。一旦死んだかに見える木々は春に再びよみがえる。すなわち死から再生するのである。この生命活動を停止したかに見える状態こそ「たま」を身に付け、再生するために要な行為であった。かぐや姫が竹の中から生まれるのも、桃太郎が桃に籠もって流れ着くのも、この世ならざる者がこの世に生まれるためには、虚ろな空間に擬死状態で閉じこもる時間が必要であったからである。この<擬死→「こもり」→回生>という循環こそが「たま」を信じた日本人の根底に横たわる生命思想であった。
八王子や三宮の社殿は、神主や巫女など神の声を聞く人々が「たま」を身に付けて能力を回復するために「籠もる」空虚な空間であった。如月の申の日より一ヶ月間、神の声を聞く者は擬死の状態にあり、今宵、卯月(四月)の午の日に回生する。かれら神の声を聞く者が神の代理人としての資格を再び得ることが出来るのか否かが試される。「こもり」は、己の存在の総てを賭けた命がけの行為でもあった。歳改まり、山の神の「みたま」は新たな威力身につけて、再来の時期を迎えようとしていた。「こもり」を果たし、神の声を聴く者たちが試される時が来た。神に仕える者は、荒ぶる「みたま」にふるえおののきながら、来臨の時をじっと待たなければならない。神は彼の人を納受されるのだろうか。
神の遷座が始まる二時間ほど前、麓の生源寺の境内に駕輿丁達が集合する。本堂の正面に陣取った鎧・烏帽子姿の世話役に迎えられ、上半身裸で腕組みをした駕輿丁達は、これから始まる聖なる儀式にそのはち切れんばかりの若い身体を松明の明かりに輝かせている。一人一人の名が読み上げられ、「よっしゃあ」と野太く答える声を娘達の黄色い華やいだ声が包み込む。駕輿丁達の脳裏を横切るのは、古より連綿と続く聖なる儀式に連なる清澄な心だろうか、娘達の嬌声に感応するエクスタシーか、それとも四百貫もある御輿に肉体を押しつぶされる恐怖との戦いか。遷座の時を間近に迎え、祭の庭は華やぎとはりつめた空気とが交錯しながら松明に照らし出されていた。頭上には八王子山が山上付近にだけうすぼんやりした灯明の明かりを浮き上がらせながら、漆黒の闇に包まれ聳えている。
駕輿丁達が松明の先導で山上に駆け上って一時間半、突然、頭上の坂の上の松林の中に松明の明かりが灯り、祭礼の庭がどよめく。山上での儀式を終え、いよいよ二柱の神をお乗せした神輿が下山してきたのだ。四十五度の、急峻な坂道や階段を駕輿丁達に担がれた巨大な神輿が地響きを立てて下りてくる。頭上からの神の影向、目覚めたばかりの荒御霊は、まだ本来の性根を失わず、荒々しい本性をむき出しにし、血を滴らせながら容赦なく担ぎ手達の肉体を苛む。神は生け贄を求めておられるのだ。超重量級の神輿は、担ぎ手の肩にぎしぎしとめり込み、腰を砕く。神の荒々しい息づかいが響き渡る。階段の途中で傾いた神輿は見物の人垣に襲いかかる。見物のどよめき、フラッシュの波、警備員の叫び声、支えの青竹がしなりながら私に襲いかかってくる。担ぎ手の筋肉は逆流する血液で膨張し、傾いた神輿を地に着ける不浄を嫌う駕輿丁達の怒号が飛び交う。境内に再びどよめきの声。先頭で凶暴な重量を支えている駕輿丁の白襦袢の肩は血で彩られていた。神誕生の儀式は時には血を以て贖われる。神はこれだけの犠牲で満足されたのだろうか。神は神の声を聞く者の願いを納受されたのだろうか。
急峻な坂を駕輿丁が喘ぎながら神輿を舁き下ろし、駆け足で御輿が本宮境内に入ってしまうと、見物の興味は途端に萎んでしまい、人々の数がみるみる減っていく。急に境内の闇の濃さが増してゆく。二宮の拝殿では篝火だけが灯され、「尻つなぎの神事」と呼ばれる聖婚の儀式がはじまった。献饌の儀式が延々と続く、ふと十禪師の背後の森に目を向けると、闇がこちらを睨んでいた。
このたび山王の春の祭礼を訪れたのは、平家物語の「願立」に塗り込められた日吉社の夜の境内の闇を実感するのが目的だった。平家物語の闇は果てしなく深くて豊穣である。「願立」には清澄なる「もの」も邪悪なる「もの」も登場する。千年前の日吉社の闇の深さを実感するには、祭の場のエネルギー、いわば光の部分と、背後の闇の部分の落差のなかに、仮想として千年の闇を実感できる場があるのではないかと考えたのである。午の日の神事に立ち現れた神は、本来の荒々しい本性をむき出しにし、血を滴らせながら産声を上げる生まれたばかりの若宮の霊であった。篝火にぼんやりと浮かび上がる十禪師の背後の林の闇から、いまにもぬっと姿を現す気配があった。一瞬の幻視の後、ふたたび神主の祝詞の声が戻ってくる。日吉山王の夜の闇の世界はとてつもなく深く、豊穣であった。
