日吉山王祭禮の夜に ― 宵宮落し
花曇りの空の下、日吉の桜花は少し青白く、沈んで見えた。あれから一年、再び神の息づかいを感じるため境内を訪れた。平成二十一年四月十三日未の日の祭りの夜。昨日の牛の祭りの高揚が醒めやらぬまま、若宮誕生の期待が境内に横溢している。私はまず、祭りが行われる宵宮場(大政所)の近くの鼠の祠に参拝する。この祠は、三井寺の頼豪阿闍梨の霊を鎮魂するために立てられた祠だ。 『白河院は皇子誕生を望み、「報償は望みのままに与えよう」と約束して三井寺の験者頼豪阿闍梨に祈祷を依頼する。祈祷の甲斐あって皇子が誕生したので、望みを聞くと、三井寺に戒壇を設置してほしいと言う。「皇子誕生を祈らせたのも世の平安を望む故である。頼豪の望みを聞いてやると、山門が怒り出し、両門の合戦が起こり、天台の仏法を滅ぼしてしまう。」白川院は望みを却下する。頼豪は悪心を起こし、泣きながら三井寺に戻り、思い死をするといって食を絶った。院は心配になり大江匡房を派遣する。頼豪は持仏堂の内より出てきて、九十を超えた老僧が、白髪を長くのばし、目はくぼくぼと落ちいって、顔の正体も判然としない恐ろしい様子で、しわがれた声で「望みに任すという約束が守れないなら祈りだした王子を連れて、魔道へ行ってやる。」とだけ言い、再び持仏堂へ引っ込んでしまった。頼豪は七日ほどで飢え死にした。そして皇子も四才で亡くなってしまった。(中略)頼豪は「山門の横やりで望みが叶わなかった」と大きな鼠になって、山門の聖典を食い囓ったので、山門は東坂本に祠を建て、頼豪鼠を神として祀ったところ、鼠の被害は収まった。』 (延慶本「白川院三井寺頼豪ニ皇子ヲ被祈事」要約) このような伝承が語り伝えられている祠である。太平記巻十五の園城寺戒壇事では、怨念のあまり鉄の牙を生やし、石の躰をした八万四千の鼠となって仏造・教典を食い散らした頼豪が描かれる。江戸時代の鳥山石燕はそれを素材に百鬼夜行図の鉄鼠を描いた。京極夏彦氏の「鉄鼠の檻」の扉に添えられている鉄鼠である。滝沢馬琴も小説「頼豪阿闍梨恠鼠伝」を著した。その頼豪の凄まじい怒りも今は鎮められ、静かに若宮誕生の時を待っている。 空がねずみ色から群青に変わる頃、かがり火がともされ、祭の庭に華やぎが増す。時が満ち境内が闇につつまれると駕輿丁が松明を掲げて入場する。宵宮場に駆け上がり、ヨイソーラ、ヨイソーラというかけ声と共に神輿をシーソーのようにギッタンバッコンと揺り動かし始める。ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、腹の底に響く鴨玉依姫の陣痛の呻き声が境内に響き渡る。陣痛の呻き声はボルテージを上げ最高潮に達したかと思うと、ひととき安らぎ、再び大きなうねりが何度も何度も襲って来ては退いてゆく。両肌脱ぎの駕輿丁の若い肉体から汗が飛び散り湯気が立ちあがる。女達の嬌声、舞い上がる白い埃。かがり火の赤い炎、境内の桜花もやがて薄桃色に色付き始める。突然、頭頂に湿った音が進入してくる。「をゝう・・・、をゝう・・・、をゝう・・・。」一瞬のたじろぎの後、全てのことが了解される。若宮が忍び足でやってきたのだ。若宮はいと高き空からではなく、地を這いずりまわりながら祭の場に来臨した。低く、高く、陣痛の呻き声は春の夜空に木霊する。もう少しだよ、もう少しの辛抱だよ。母の鴨玉依姫は若宮の荒魂を宥めるように囁く。ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、ドッスン、陣痛の叫びがカタストロフィーを迎えた瞬間、若宮の誕生だ。神輿は宵宮場の社殿から投げ出され、駕輿丁によって担がれる。さあ鼠の祠まで競争だ。どの神輿が一番先に到着するか。駆け出す二宮の神輿。おっとと、八王子神輿は右に傾いてひっくり返りそうになっている。山から下りるときは何とか支えた駕輿丁が悲鳴を上げている。十禅師神輿はその隙をかいくぐって、八王子神輿を追い越してしまう。猛り狂う駕輿丁の声。若宮の産声だ。祭の場の観衆はこの瞬間を待っていたのだ。闇に包まれた日吉の境内の東本宮前から西本宮まで、松明の明かりを頼りに神輿は進む。 神輿が立ち去ると、大宮川のせせらぎの音が戻ってくる。見上げると、八王子の社の灯明がうすぼんやりと闇に浮かんでいた。山は黒々と沈黙を守って、八百年の間そこに在った。
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名波弘彰「平家物語に現れる日吉神社関係説
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