Z 源平盛衰記・長門本の独自挿入説話
1.入棺時の怪
盛衰記、長門本、四部合戦状本には他本には見られない次のような逸話が挿入されている。 『(師通)の病は髪の生え際に悪瘡ができたもので、大きく腫れ上がった。看病に伺候した人々は、立烏帽子をきて前後に控えていたが、互いに見えないほど大きく腫れ上がっていたので、ご入棺申し上げ葬送申し上げる状態ではなかった。父の大殿はこの様子をご覧になり、涙にむせびながら斎戒沐浴され、春日大明神を伏し拝まれ「子息師通は山王権現の御咎のため早世しました。春日明神はなぜお見捨てになったのでございますか。ただ定まった命のことでございます、今となっては力及ばないことでございますが、このような浅ましい有様では恥を隠しようがございません。この後、氏人を氏人として処遇されるおつもりなら、この姿を元の形にお戻しください。最後のお願いでございます。」と泣く泣くお口説きになったのは哀れなことだった。春日明神がご受納になったのか、たちまちに腫れが引いて、ご入館を済ませることができたのです。』(盛衰記) 一読して、春日信仰の匂いがぷんぷんする挿話である。師通早世で関白一家が悲しみにうち沈んでいる場に、追い打ちをかけるように師通の悪瘡が入棺できないほど異常に晴れ上がる話が付け加えられる。父師実は氏神である春日明神の方向を伏し拝み、氏神として師通の命を助けてくれなかったことをぐちり、それでも定業はしかたがないこととして、この異常に腫れ上がった師通の体を元に戻してくれるよう祈願する。春日明神はただちにその願いを納受して、めでたく師通の腫れは引き、納棺が可能となる。 師通の悪瘡の異常な腫れ方が山王のたたりであるとすれば、ただでさえ若くして死んだ師通に対し、死後さらに恥をかかせるという、これでもか、これでもかという仕打ちを山王権現が行ったことになる。次節で紹介する「師通が盤石の下の閉じ込められる話」を含めて、山王権現は死後も苦痛を味わわせるという異常なたたり方を行ったこととなる。平家編者が師通の死後、山王権現の行為を「慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御とがめなかるべしとも覚ず。」と認識するとき、とがめを利物の方便と正当化するとしても、おのずとある意味でのたたりの節度を考えていたものと思う。無制限なたたりは、山王権現をただの化け物にしてしまう。それでは、山王権現を慈悲を具足しながらも、恐ろしく有り難い存在と位置づける事が不可能になってしまう。これでもか、これでもかと無慈悲に重ねられるたたりは本来、山王権現によるものではありえない。山王権現は悪瘡発症というたたりを与え、師通を死に至らしめるが、たたりはそこまでであり、死者に恥をかかせるような異常な腫れ物など用意していない。 これはあくまで春日明神の霊験のありがたさを宣伝するために附加されたものである。もともと師通の山王権現によるたたり死にも山門側の流した風説である。関白家の不幸と山門の風説に覆い被さるように異常な腫れ物の挿話を挟み込んで、信仰の宣伝を行おうとしたのは春日信仰に荷担する一連の人々の仕業だと考える。春日信仰は日吉の境内に様々な姿で見え隠れする。例えば、山家要略記に十禅師垂迹事として『十禅師は(僧形)桓武天皇即位の延暦二年に地主宮の前に天降り、天兒屋根尊として顕現された。』と記されている。天兒屋根尊は春日大社の第三殿に祭られており、中臣連(=藤原氏)の祖である。天照大神が天の岩戸に隠れた時、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに鏡を差し出した神であり、天孫降臨の時瓊瓊杵尊に従い、葦原の中国に天降った神である。 前節で比較検証したように、四部合戦状本は法華問答講説話の影響が見られず、法華問答講説話に彩られる以前の原型を保持しているのではないかと想像してみたのであるが、最終部分に、明らかに後代の挿入物と思われる春日信仰説話を取り込んでおり、これは原型から距離のある挿話である。四部本が成立当初からこのような構成であったのか、あるいは成立後のある時期に第二の編集者がこの挿話を付加したのか、またそれはいかなる意図で挿入したのか、窺い知ることは難しい。平家物語は一筋縄ではいかないのである。 |
|
2.盤石の下の地獄 盛衰記、長門本、日吉山王利生記にはさらに次の独自挿話が付加されている。盛衰記で紹介する。 『関白がお亡くなりになった後、八王子と三宮の間に盤石があるが、その石の下で雨の降る夜はいつも人が愁吟する声が聞こえた。参詣の貴賤は怪しい思いに駆られた。多くの人の夢に、束帯姿の気高い貴人が現れ「我は先の関白従一位内大臣師通である。八王子権現が我が魂をこの岩の下に閉じ込められた。ただでさえ悲しいのに、雨の降る夜は石を取って責め押されるので、その苦しみは耐え難い。」と石の中にいる事をお示しになった。年月が経るに従い、今は愁吟の声は途絶えた。人の夢に「私は、久しく盤石の下に閉じ込められていたが、長年の法華講経の功徳により助かり、都卒天宮に生まれかわることができた。」とお告げになった。盤石の下からの苦吟の声もなくなった。』 たたる神八王子権現の恐ろしさを加速度的に誇示したおぞましい中味が語られる。八王子と三宮の間の盤石とは、金大巌のことと思われる。近世初頭に成立した日吉神道秘密記には『八王子と三宮の間にある。奥へ長い石である。厳上にまた霊石がある。八王子は八十万の神を引率して金大巌に天降った。』金大巌は八王子権現が降臨される磐座と信じられていた。八王子権現の怒りのために関白師実の魂は、彼岸に往けず、その磐座の下に長期間閉じ籠められる。雨に降る夜はその石がこれでもか、これでもかと責め押され、苦しみに耐えず呻き声を上げ、参詣に人々を恐怖におとしいれる。八王子の神が降臨する磐座の下に地獄があった。山王利生記には次のような逸話がある。 『比叡山東塔の眞源が、死亡したはずの嚴算が日吉大宮の楼門の前を通る夢を見る。「あなたはお亡くなりになったはずです。どうしてここにいらっしゃるのですか。」と問うと。嚴算は「私は生前仏法に功績を遂げ、修学に力を尽くしたが、名利貪着心を起こし、六道輪廻の業を断ち切ることができず、極悪道に入るべきところを、日吉権現の方便で、当社のあたりに召しおかれ、様々に扶持していただいている。総て山門に跡を留め、社壇に歩を運ぶ者は、貴賤禽獣に至るまで残し給うことはない。いはんや社司寺官等宮仕宮籠、皆この奥の八王子谷のほとりに召しおき、昼夜に加護してご利益をすべてのものにお与え下さる。・・・(略)」と答え、その様子をお見せしようと、奥の谷の後方へいざなう・・・(略)』 この文章からは、宮籠が社司・寺官・宮仕等とともに、日吉社の信仰集団の成員に数えられていたことが理解できる。それと、山門・日吉社に縁のあるものはすべて「この奥の八王子谷のほとりに召し」置かれ庇護されると語られる。古来八王子山周辺は古墳の集積地であり、比叡山そのものが山岳修験の霊地であった。そのため死者の霊が集まる聖地が各所に発生し、山中他界観念が発達したものと思われる。そうした死霊が漂う山中他界観念のイメージの先にこの挿話の発生源があるのだろう。山門・日吉社に縁のあるものはすべて庇護される八王子谷周辺であるが、その山頂の金大巌の底は、山門・日吉社に弓引く者にとっての地獄であった。ただ閉じ籠められるだけでなく、雨の夜には重い巌がさらに押されて、耐え難い苦痛に苛まれ苦吟する。このさわりを聞いた中世の聞き手は、さながら地獄絵を見る思いに身がすくんだことだろう。苦吟する師通の声は参詣人を恐怖におののかせ、多くの人の夢に師通の死霊が現れる。古代から中世に生きた人にとって夢は此岸と彼岸をつなぐ通路であった。信貴山縁起絵巻は中興の祖命蓮上人の事績をえがいた縁起絵巻であるが、尼公の巻に、姉の尼公が命蓮の居所を訪ねて信濃からやってくる道中、さがしあぐねて東大寺に参籠する場面がある。ここに描かれた大仏殿は平重衡によって焼き討ちにあう前の姿が描かれている。参籠することで命蓮の居所が夢で告げられる。ここでは大仏に祈り、その膝前で寝て、夢中に告示を授けられる一連の参籠の作法が異時同図法により一つの図のなかで表現され、この時代の参籠・夢告げがどのように行われたかよくわかる絵画資料となっている。日吉の下殿参籠もおそらくこうした作法で神からの啓示を受けたのであろう。 人々が死霊の声を聞くもう一つの方法は、口寄せであった。盛衰記とは別に長門本では師通の死霊が取り付いた宮籠と御子わらはが人々に盤石のしたに閉じ込められたいきさつを語る。宮籠や御子わらはは、恐山のイタコのように、死者の声を人々に伝えることが出来た口寄せの御子であった。盛衰記では師高の苦吟が何時、どのように解かれたかを語られていない。ただ「長日の法華講経の功徳により」都卒天宮に生まれ帰ったというばかりである。それに対し長門本では、北の政所が御願で法華八講を山王権現に約束したにもかかわらず、師通が死んでしまったため取りやめになったこと、それに怒った八王子権現が師通を大盤石の下に閉じ込め苦しめたこと、それを伝え聞いた父の大殿が法華八講を開始すると、七日目に「我法華八講の功徳によりて、ただ今極楽浄土へ参り候」という師通の声が聞こえたと記し、苦吟が聞こえなくなった理由を明確化している。 金大巌を巡る物語は、山王利生記でも取り上げられており、日吉信仰圏では山王権現に逆らった場合の恐ろしさ、逆に頼みにした場合の頼もしさを語るのにふさわしい物語として信仰圏の内部から語られ始めた物語である。
|
八王子(右)と三宮(左)の奥に鎮座する金大巌、この下に師通は閉じ込められ、苦吟する。
|
3.兵主の鏑矢
山門大衆による師通への呪詛は、根本中堂か八王子社殿で行われ、八王子から鏑矢が飛び立つ。この部分に関して長門本には独自の挿話がある。 『三千の宗徒等は八王子へ参社し、大般若経を真読して、師通へ鳴矢をお放ち下さいと呪詛した。八王子の社に参籠した人がある夜に見た夢に、御殿の内から気高い声がして「兵主、兵主」とお召しになる「近江の国野洲郡におります兵主大明神はこちらに参上しております。」と声がすると「神の敵を成敗せよ。」と仰せになる。「承知いたしました。」と返事をし、白箆にうすやう作りの鏑矢を重籐の弓につがえ、西の方へ向かって射ると、鏑矢は京中に鳴り響く音を発しながら、二条関白の御所の御簾の縁に突き立ったように見えた。参籠した人が夢に驚いて目覚め、聞けば、八王子の御殿の上から鏑矢の音が鳴り出て、比叡山を越えて西を指して飛んでいった。』 延慶本などで八王子権現が放つ鏑矢を、ここでは兵主大明神が放つ設定になっている。どうしてこうした要らざる説話を挿入するのか、源平盛衰記や長門本の編纂者というのは、自分たちの思想、宗教、政治的姿勢の表明のためかなり周到に挿話を準備する場合もあれば、この様になんの衒いもなく外連味の強い話を挿入してくる。私はそうしたスタンスがとても楽しく、面白く思うのである。 近江の国野洲兵主神社は延喜式神名帳に載り、八千矛神(大国主神)を主祭神とし、大山津見の系譜である足名椎神・手名椎神を配祀する。足名椎神・手名椎神は八岐大蛇退治で素戔嗚尊が娶る櫛名田姫の両親で、いずれも出雲系の神々である。社伝によれば、景行天皇の時代(歴史上不存在)に桜井の穴師坐兵主神社を近江国・高穴穂宮への遷都に伴い穴太( この兵主神とは単なる軍神なのか。兵主神は天日槍伝説と共にある。天日槍は新羅の王子で、播磨国から近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、定住したとされる。どうやら大陸にルーツを求める必要がありそうである。史記の封禅書に次の記述がある。「山東地方の齊国では八神を祀るが、天王、地主についでその第三番目を兵主といい、蚩尤を祀った。」兵主神とは蚩尤のことであった。山海経大荒北経に、中国古代の伝説上の帝王で五帝の第一である黄帝が、蚩尤と涿鹿の野において死闘を繰り広げた物語がある。 『蚩尤は兵器を作って黄帝を攻撃してきた。黄帝は応竜を冀州の野に派遣して蚩尤の軍に反撃を加えた。応竜は水を蓄え蚩尤を水攻めにしようとした。蚩尤は風伯と雨師をまねき、暴風雨を起こし応竜を撃退する。そこで黄帝は寵姫で青衣を着た魃という天女を天下した。魃は旱魃をもたらす神であったため、暴風雨はたちどころに止んだ。そこで黄帝は軍を進め蚩尤を殺した。』 切られた蚩尤の首を埋葬した巨大墳墓が、齊の西方山東省の国境付近にある。蚩尤を縛った手枷足枷は身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まり、それが楓となった。楓が毎年秋に赤く染まるのは、蚩尤の怨念のためという。江蘇省出身の漢の劉邦が前209年、秦に謀反して兵を挙げたとき、蚩尤を祀り、軍楽隊の太鼓や旗指物に犠牲の牛の血で染め戦勝を祈願した。この赤旗を「蚩尤旗」と言う。蚩尤は戦いの神として、漢代に至るまで東方の人民に畏敬されていた。 蚩尤は戦斧、楯、弓矢等の青銅器武器(五兵)の発明者といわれる。獣身で頭は銅、額は鉄と言われたり、四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持ち、頭に角があり、砂や石や鉄を食べると言われている。砂や石や鉄を食べる五兵の発明者というのは蚩尤が銅鉱石や砂鉄・鉄鉱石から青銅器武器や鉄器武器を製造する一族の始祖であり、鍛冶屋の神であったことを示している。涿鹿の野の戦いで蚩尤は風伯と雨師を駆使する。蚩尤は古代において神秘的な鞴の風の技術と水の制御とを操る鍛冶屋の始祖神であった。華北大平原に居住する住民は、西北のゴビ砂漠を渡ってくる風を広漠風と呼び、大変恐れた。ゴビ砂漠に発生する急激な上昇気流は砂漠の砂塵を吹き上げ、広漠風によって華北平原に運ばれ、瀑布のように吹き下ろし、家畜や人間を時に窒息死させ、甚大な農作物被害をもたらす。広漠風はゴビ砂漠のどこかにある風穴から吹いてくると信じられ、殷王朝では女巫に寧風という防風のための特殊な祭りを行わせた。遠く西日本の春先に黄砂をもたらすのも「あなぜ(=西北風)」である。穴師兵主神社の「あなじ」は「あなぜ」と共に西北の風を意味しており、穴師の山が風の神を祀る山であったことを示している。青銅・製鉄の中で最も重要な技術は炉の温度を高温に保つための風(=酸素)の供給を制御する鞴の技術であった。そのため風の神=鞴を操る鍛冶屋の神という観念が融合したのである。また古事記において八岐大蛇の腹が血のように爛れていたとするのは、出雲の肥の河が砂鉄精錬の過程で出る鉱滓のため赤く濁っていたことを示していると言われる。八岐大蛇を征した素戔嗚尊は泣きいさちる神であり、風雨を支配する荒神であった。水の制御も製銅・製鉄に不可欠の技術であった。鍛冶屋の神は水の神でもあった。 天日槍が定住した但馬国は延喜式神名帳に掲載される十九の兵主神社の内五社が集中立地する。彼は大陸の鉄生産技術や製陶技術を招来した技術集団の長であった。その技術が初期の大和政権に注目され、一族の一部が大和の地に移住したのであろう。移住した一族は初期大和政権の武器製造や、農耕機具生産に携わり、政権の勢力拡張に貢献した。天日槍の後裔には菓子の神である田道間守がおり、その孫は息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命である。彼らは始祖の神を穴師兵主神として祀った。近江の野洲兵主神社が先述のごとく穴師兵主神を勧請したものであるとすると、巻向の製鉄集団の一部が、遷都に従い穴太に移住し、さらに野洲に移住したのかもしれない。息長帯比売命の父は息長宿禰王で、滋賀県米原の山津照神社古墳に葬られている。米原周辺は皇室に皇后を送り込み、皇室との関わりが深いにもかかわらず文献にほとんど登場しない謎の一族、息長氏の本拠地であり、天日槍の末裔とも関わりがある。野洲の兵主神社はこうした関係から、製鉄技術者が居住した場所なのかもしれない。大和岩男氏によれば野洲兵主神社の冬至日の出方向(東南東)には鏡神社(祭神:天日槍) なぜ、平家物語と関係のない話を長々と書き連ねるのかというと、実は私のふるさと兵庫県の氷上にも兵主神社がある。小さい頃から「ひょうず」という名の呼び方に不思議な思いを抱き続けてきた。「ひょうずさん」と地元からは呼ばれている。「ひょうず」というのは発音しにくい。日本語になじまない音の響きがある。一体何の神様か祖母や父に聞いてもはっきりしない。疱瘡の神様として都から貴族のお参りがあったという伝承が残っていると叔母から聞いていた。何か釈然としない思いをもって長年放置していたが、長門本の願立を読むと、野洲の兵主神社が出てきたのである。不思議な巡り合わせというものがある。この部分を読んだ直後、三宮の古書店で立ち読みをしていると、大和岩雄さんの「神社と古代民間祭祀」の中に兵主神社のことが書いてあり、衝動買いしてしまった。目から鱗であった。長年抱いてきた釈然としない思いが氷解した。兵主神社は渡来系の鉄生産者が信仰する蚩尤を祀る神社で、氷上の隣接地但馬に集中立地する神社である。但馬の石津は天日槍の居住地であり、古代たたら製鉄がおこなわれ、製陶では石津焼きの生産地である。故郷の氷上は日本海に注ぐ由良川支流と瀬戸内海に注ぐ加古川支流の分水嶺にあたる。加古川流域は砂鉄の産地であり、氷上でもたたらの遺跡が出土している。こうした渡来系の製鉄・鍛冶屋集団が信仰した神社が我が氏神の兵主神社であった。鍛冶屋の神様は軍神となり、その恐ろしい風貌から、恐ろしい疫病であった疱瘡を退散させる力のある疱瘡神へと変貌した。現在は大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神をお祀りしている。 晩秋の紅葉が丹波の山々を美しく彩っている。楓の赤は蚩尤の血の色だという。その血のような赤をクヌギ・カシワ・コナラ・カシの落葉樹の黄や赤松の緑がやさしく包み込み、蚩尤の無念を鎮めている。丹波は霧の國である。厳しく冷え込んだ朝、さして高くない山々はすっぽりと霧に包み込まれ、墨絵のような幻想的な景色が広がる。わらぶき屋根の農家はめっきり減ってしまったが、ほんの三十年ほど前ならまだまだ残っており、霧の間から、藁屋根がうっすらと現れ、軒上の柿の赤との組み合わせが美しかった。そういえば、涿鹿の野の決戦で、蚩尤のはき出した大霧に包まれ、黄帝の大群が迷子になってしまう物語もあった。戦国の武将赤井長政の居城であった城山を包んでいた霧も晴れ、ふもとの兵主神社では紅葉に宿った露玉が朝日に輝いていた。 兵主神というキーワードを通じて、平家物語から近江野洲、大和巻向、但馬とが結びつき、韓国を経て山東省、江蘇省とが連鎖し、史記、古事記とが空間的・時間的に連鎖し、ついには故郷丹波に繋がるイメージの連鎖を楽しんでしまった。ご寛恕を請う。
|
*Z−4:白箆(しらの)=竹を、焦がしたり漆を塗っ
*Z−6:高馬三良訳「山海経」
*Z−7:貝塚茂樹「神々の誕生」中国史1
*Z−8:大和岩雄「神社と民間祭祀」
|